虚空の黙祷者

クローカ/黒岡衛星の日記帳

欅坂46「サイレントマジョリティー」PVに描かれる伊藤計劃以後とアイドル

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平手友梨奈さん最高や!!!!1111

あまりにも衝撃的だったので、このエントリがいつものフォーマット、論調からずれるのを許して欲しい。

しかし、タイトルからブチかましてしまったからにはきちんと書かねばなるまい。まず、伊藤計劃による『Vフォー・ヴェンデッタ』評。

d.hatena.ne.jp

長い文章だが、読んでほしい。いちおう引用しておく。

「~ヴェンデッタ」のイギリスで排斥されるものは非白人であり、レズビアンであり、ホモセクシュアルだ、と書いた。そう、彼らはこの世界に違和感を感じている者たちだ。この映画である人物は語る。どうしてひとと違うことがいけないの?と。

目的を描かないまま引用するという悪手を取ってしまったが、いちおう僕の意図は汲み取ってもらえるのではないかと思う。

欅坂46「サイレントマジョリティー」のPVで描かれているのは、かつて伊藤計劃が『ハーモニー』にしたためた、少女と管理社会についての萌えそのものだ。

 この種の管理社会は、いまや「懐かしい悪夢」となっている。管理の在り方が複雑化するぼくらの社会で、「支配」の物語はノスタルジーとしてしか機能しない。「リベリオン」がぞうであったように。「イーオン・フラックス」がそうであったように。映画的にかっこよくて面白い「ファッション」として、それらの社会は描かれる。「キャシャーン」のロシア・アヴァンギャルドの動員もそういうこと。

伊藤計劃『ハーモニー』には、端的に『オタクのための思索入門書』としての側面があり、それが厄介な『伊藤計劃以後』というメイルシュトロムを起こしたわけだが、その骨子にある、素朴とも言ってよい『少女と管理社会』という萌えだけを取り出すとこうなるのだ、というのが『サイレントマジョリティー』PVなのではないかと思っている。

ここで長文をさらに召喚させてもらおう。

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 自分は、この「古き未来の再生産」のラインナップに、70年代的超管理社会ディストピアが入ってきた、と「リベリオン」で感じた(その辺の詳細は本サイトのリベリオン紹介のほうに)。明るい科学技術未来だけではない、絶望の未来すら「ファッション」になる2004年未来なき世界。

 そして、ぼくはそのラインナップに、もうすぐ「ソ連」が入ってくるのではないか、と思っている。ファッションとしての「鎌とハンマー」、ファッションとしてのスターリンゴシックファッションとしての赤軍ファッションとしてのロシア・アヴァンギャルド(はもうキャシャーンがやってるか)。

 『ファッションとしてのディストピア』。資本主義の鬼、のような(こんな書き方をしてしまうとまるで共産主義者のようだが)プロデュースド・バイ・秋元康のアイドルが『君は君らしく』、『大人たちに支配されるな』と歌わされる(と、敢えて表記する)悪趣味/グロテスクさはタチの悪い萌えでありブラック・ジョークの類いであって、『モンティ・パイソン』をこよなく愛した伊藤計劃氏が蒔いた種がこんなところで発芽するとは思ってもいなかった。

もう一度『~ヴェンデッタ』評からの引用に帰ろう。

マトリックスリローデッド」という名作(あ、そこ、石投げないで!)で描かれていたのはまさに、古くさい「支配」でなく、いまどきの「管理」の在り方だった。ぼくらは自由だ。ぼくらには選択する自由があるように見える。でも、それってほんとかな。そもそも自由ってなんだろう。自由っていうのはぼくらがアプリオリに有しているなにか実体のあるものなのかしら。「リローデッド」は、いいや、それは違う、という。無限定の自由などどこにもない、それはしくみ、アーキテクチャで決まっているものだ、と。ぼくらがネットに接続するとき、ぼくらがamazonで買い物をするとき、個人情報の群れがゆるやかに結びつけられて分析されるとき、ぼくらの社会の「自由」の幅は、静かに、どこかで、決定されている。決定する主体のない、関係性の中で。 

 舞台を現代に、ポリティカルな視座すら玩具としてディフォルメして見せる(「どこかの国の大統領が~」の振り付け決まりすぎ)秋元康、並びに欅坂46チームの空恐ろしさと、それらを魅力的に見せてしまう欅坂46、中でも平手友梨奈のセンター力/カリスマによる圧は圧倒的資本によるアイドルのデビュー・シングルとして完璧とも言えるし、脅威とも言えるだろう。端から見ればたかがアイドルに萌える話、ではあるのだろう。だからこそ、健康を保っていられるとも言える。ナチスの将校による少年愛に萌えるように、黒森峰の制服に萌えるように。