虚空の黙祷者

クローカ/黒岡衛星の日記帳

メタモルフォーゼは四倍なのです

『ぼくは、おおきくなったら、あやかしにすみたいです。』

書き出しが子供時代の文集の引用から始まる文章というのもなんだかナルシスティックではあるけど、今からきみが読まされる文章というのは、そういうものになる。これは壮大というにはいささか陳腐な、そしてバレンタインのようにべったりとした惚気を含む、泣きたくなるような安っぽい話しであることを覚えておいてほしい。

覚えておく。そう、ぼくがきみに望むのはただ一つそれだけ。きみがぼくを、そして彼女を覚えていてくれること。この文章はきみに向けて書かれたもので、きっと、きみしか読まない。それはとても素晴らしいことだとぼくは思うし、彼女もきっと同感だろう。

なぜぼくがあやか市に住みたいと思ったのか、今となってはもう覚えていない。しかし、なんとなく、わかる。たとえばきみが目的もなく出かけていて、いや本当は目的があったんだけど、どうしようかな、やめて別の場所へ行こう、なんて考える、それ。要は『なんとなく』とか『気分』とか、そういった類のものであって非常にデリケートかつ適当だ。

本来、というのもなんだか変な話だけど、思春期のぼくは『ラブコメ』という四文字を愛していたのだから、うれ市やはずか市に住んで将来は女子寮の管理人にでもなれば良かったのではないか、とも思う。というか、実際ぼくは中学の文集にそのようなことを書いた覚えがある。成人するとともに恥ずかしくなって焼き捨てたのだけれど。

さて、あやか市というのはあやか市であって、つまるところあやか市なのだけど、ぼくは人間だった。それはつまり、人もまたあやかしであるということなのかもしれないし、たまたまぼくにあやかしの素養があったということかもしれない。ぼくはおたくだから、後者のような何かしら特別な存在であったというような夢を見たい気もする。

しかしまあ、あやか市の中にどれだけ人が紛れ込んでいたのかはわからない。あやかしがあやかしの姿をしている道理はなく、あやかしといってもいくつかのパターンと無数の個性がある。人を分類するとして、肌の色だけでも結構な数に分けられると思うのだけど、あやかしはもっと、なんていうか、自由だから。

人によっては悪夢のようだと感じるかもしれないその市にぼくは住んでいた。でも、誰だって一度は見るものだろう?悪夢なんて。いつかは晴れるはずと、明けない夜はないと、抜けないトンネルはないと信じているのじゃないか。

幸いにしてぼくはあやか市が好きだった。その猥雑と清廉と幻想と混沌が混ざり合ったさまは子供の頃に読んだカラフルな絵本のようだったし、初めて小説を読んだときのイマジネーションの奔流のようでもあった。

あやか市に未来はなかった。それがぼくを安堵させたのかもしれない。わかりもしないもの、読めもしないもの。そういったものが怖くて、ぼくは無意識的にあやか市を選んだのかもしれなかった。あやか市は過去にあって、同じ土地には未来の街が広がっている。

あやか市には未来以外のすべてがあった。というか、無いものを作ることができない街、それがあやか市だと言っていい。過去のすべてはあやか市に集まっていて、住む上での不便はそれほどなかった。

ぼくがあやか市に来ていくらか経った頃、一つの大きな、そして些細なミスを犯してしまった。それはなんだかとっても一大事で、その後のぼくの一生を決めることになる。

「鬼は内……」

本当にうっかり口からついて出たとしか言いようがない。よりによって節分の、玄関に撒く豆(ちなみに、このときは落花生だったのだけど、きみはどうかな。なんの豆を撒くんだろう)で、鬼を呼び寄せてしまった。ここはあやか市だというのに。

「はい、鬼です」

電話にでも出るような気軽さで、彼女は門をくぐり現れた。

「お世話になります」

これまた、ハンカチでも借りるような口調で、彼女はぼくの部屋に住み着いた。

ぼくはやっぱりおたくなのだな、なんて、ちょっと笑ってしまった。だって彼女は美少女で、それはぼくが思春期に描いた妄想の中にあっていちばん胸をときめかせたものなのだから。

「あの、どうしました?」
「ああ、いや。……よろしくお願いします」 
「いやですわ、挨拶しなくてはいけないのはわたしのほうですのに」 

二人して、笑いあった。
それはどこかよそよそしくて、けれど暖かな、優しいものだったように思う。

おっとりしている、という彼女の第一印象は、なかなかに裏切られることになる。彼女はなんていうか、あやか市を遊園地かなにかのように思っていたようで、ぼくをさんざ引っ張りまわしたのだから。

当時を掴むちょうどいい資料、というのも何か違う気がするけれど、ここにサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」という曲がある。これは日本の歴史に残るような名曲であって、きみがもし聴いたことがないというのならすぐにでも聴くといい。ありがたいことに、試聴にはことかかない時代なのだし。

要するに、タイムマシンにお願いして、あらゆる過去をひとっ飛び、という歌詞なのだけれど、この曲には未来が出てこない。ここに描かれているような、そしてこの曲そのもの、軽快なブギーみたいな旅へと彼女はぼくをいざなった。

エルヴィス・プレスリーに熱狂する人々と、顔をしかめる人々、規制され映されなかった腰の動きを観て笑った。スタジアムで演奏するピンク・フロイドの、遥か上空を飛ぶ豚に歓声を上げ、ロバート・ジョンソンと肩を組んで歌おうとしてスライド用のナイフで手の甲を切られそうになった。レッド・ツェッペリンのアメリカ・ツアーで対バンのグランド・ファンク・レイルロードの品のない爆音を浴びて、ジミ・ヘンドリクスの祈るようなパフォーマンスに泣いた。

それはあやか市のみせた幻で、ひょっとすると彼女の記憶にしか存在しないものかもしれない。彼女は鬼で、あやかしで、きっとかわいい女の子だから、ぼくはすべてをゆるしてしまう。

「ロックは嫌いよ」
「そうだね、下品で、うるさくて、バカみたいだ。もしくはそのどれかだ」 

ぼくたちはヒッピーだったのかもしれない。日本にもいくらか存在したと言われる、あれ。あやか市の空気がそうさせたのかもしれないし、水がそうさせたのかもしれない。それがロックのせいだったなら、それはいくらかロマンチックだけど。

だけど、やっぱりぼくは人間で、ただの人でしかなかった。ぼくには未来が約束されていて、彼女は過去を生きていた。

彼女は優しく死んだ。それはエコだなんて言ったらさすがのぼくでも怒るよ。

死因はぼくと交わったことだって、市役所の人が教えてくれた。なんだそれは、彼女は交尾を終えた鮭か何かか、と思わなくもなかったけど、つまりはまあ、そういうことなのだろうと思う。彼女の過去をぼくが食いつぶしたとも言えるし、ぼくの未来が彼女を今まで生き長らえさせていたのだとも言える。どうとだって言える。

葬儀はちょっとだけさみしかった。すこしだけお酒を飲んで、安いステレオで「天国への階段」を聴いた。いつもより大きなボリュームで。

きみは彼女の忘れ形見かもしれないし、彼女がきみにすべてを託したのかもしれない。彼女がきみのことをどう思っていたのかはしらないけれど、ひとつだけわかっていることがある。

きみはぼくたちの未来だ。

ねえ、きみがおとなになる頃、ぼくももう死んでしまってきみのそばにはいないだろう。ぼくの未来は有限だから。あやかしのように過去は生きられないから。

これじゃなんだか遺書のようだね。よくない。もう少しばかばかしく書くべきだったかもしれない。「あなたにはユーモアが足りないわ」なんて、彼女は一言も言っていなかったのになあ。それとも、ずっと思ってはいたけど口には出さないとかそういうやつなのか。女の子には秘密があるのとかそういうやつか。

きみは好きな街で、好きな人生を送る権利がある。こんなこと、ぼくが言うようなことじゃないのはわかってる。今更だよね。でも、やっぱり、ぼくはわがままだから、これだけは念を押しておきたいんだ。

ぼくたちを、おぼえていてね。

それじゃ、また。
未来の先にある街でいつか会おう。

 

(この掌編はふたたねさんのSSコンペ第八回、お題:『門・節分・未来』に参加させていただいたものです)